- 石屋のないしょ話
日本の着物なのになぜ呉の服?
日本の民族衣装である着物を「呉服」といいます。「呉服屋」とは古代中国の「呉の服」のことです。しかし中国に魏・呉・蜀の三国時代があったのは、紀元前3世紀のわずか60年間ばかりのことです。
それなのに今でもなお「呉服」と呼び続ける私たち・・・。不思議ですよね?
そもそも中国の呉の国から織り方が伝わったとされる呉服。それは「呉織」と呼ばれて輝くように美しく、特別な力を持つ絹織物だったそうですが、この時代のことはよくわかっていないようです。
つぎに史料にあらわれるのは「呉服」ならぬ「御服」です。平安時代には、天皇の装束をつかさどる「御服所」がおかれ、衣服としての絹織物の調進はその役所が担当しました。邸内に縫女工がおり「御服」を縫っていた様子などが「中右記」に残されています。この「御服所」は院の御所、摂関、大臣、将軍家にもおかれていたようですが、こちはと詳細はあきらかではありません。
当時、一般庶民の衣類は主に麻であったことから、「呉服」という名のきらびやかな絹織物を着用したのは宮中、院、摂関家などの限られた人たちだけでした。そこで「呉服」は「御服」と転じたのです。「敬って衣服という語」として、文字通りの役割りを果たしていたことになります。
その後、戦国時代をむかえ、戦国大名たちが好んで絹織物を着るようになりました。これは中国で養蚕技術が発達し、絹が大量に輸入されるようになったためです。とはいえ「御服」はまだまだ庶民にはほど遠い衣類でした。裕福な町人や商人、さらに一般庶民へと広がったのは江戸時代、それも元禄の頃です。
絹が広く普及するにつれて、かつての尊称である「御服」と呼ぶわけにはいかなくなりました。そこで再び「呉服」の文字が息を吹き返したのです。
江戸城大奥では、将軍らの衣類を扱うところを「呉服の間」、将軍家の呉服御用を「呉服師」と呼んでいました。かつての「御服」の文字はこの時代には消えたのです。
こうして「呉服」と呼ばれて1700余年。途中で「御服」と転じた時代はありましたが、再び「呉服」に戻って現在に至るのです。
ちなみに和装の本場・京都の呉服業界で「呉服」といえば、着物地、帯地、襟地、裏地類まで、国産絹織物いっさいの総称とされているそうです。
ご参考までに・・・。

