石屋のないしょ話

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何故本願寺は東と西に分かれているのか?

西本願寺は、下京区堀川通り花屋町下がるにあり、JR京都駅から徒歩5分ほどの場所で、堀川通りに面して壮大な伽藍が建っています。

東本願寺は、下京区烏丸七条上がるにあり、西本願寺をそのまま東にずらした位置に建っています。双方とも壮麗さ、規模はほぼ同じです。

浄土真宗本願寺派の本山が西本願寺、真宗大谷派の本山が東本願寺ですが、そもそも両寺のはじまりはひとつの本願寺で、親鸞聖人が説いた浄土真宗を伝える寺でした。

浄土真宗は鎌倉時代半ばに親鸞によって開かれ、室町時代の蓮如によって民衆に一気に普及し発展しました。親鸞は1262(弘長2)年に90歳で入滅しましたが、10年後の1272(文永9)年にお堂を建てて祀りました。大谷廟堂で、これが本願寺のはじまりです。

蓮如の力によって教えは一気に全国に広まっていきましたが、それが比叡山延暦寺の反発を買い、比叡山衆徒の襲撃により大谷廟堂は破壊されました。その後、蓮如は越前吉崎に御坊を、京都山科に本願寺を建てましたが、山科の本願寺も日蓮衆徒により焼き討ちにされたため、大坂の石山に本願寺を移しました。

この頃には本願寺は戦国大名にも匹敵する兵力を持ち、それが織田信長には目障りであったため、1570(元亀元)年、信長と本願寺の石山戦争が勃発、10年にも及びました。1580(天正8)年、本願寺宗主・顕如は信長との和議を選び、石山本願寺を明け渡しましたが、長男の教如は徹底抗戦を主張して対立しました。

本願寺が京都の堀川六条に戻れたのは、1591(天正19)年、豊臣秀吉がこの地を寄進したことによってでした。これが現在の西本願寺です。移転の翌年、顕如が亡くなると、秀吉は抗戦派の教如を隠居させて、三男の准如に本願寺を継がせました。

この跡目争いに目をつけたのが徳川家康でした。家康は本願寺を別にもうひとつ建てることを考え、1602(慶長7)年、准如と対立する教如に烏丸七条の土地を寄進し、まったく同じ規模の大寺を建立させたのです。これが東本願寺です。

同じ本願寺をもうひとつ建てる意図はどこにあったのでしょうか?

家康は、大名と同じ兵力を持った本願寺の勢力を恐れていたのです。そこで、本願寺の勢力を二つに分断して弱めようとしたのです。

さすが家康の深慮遠謀の見事さです。

 

ご参考までに・・・。