石屋のないしょ話

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葵祭

京都市の賀茂別雷(上賀茂)神社と、賀茂御祖(下鴨)神社の例祭で、毎年5月5日に行われます。

祭りに参列する人の衣冠・牛車や社前にアオイの葉をつけるので葵祭といいますが、「賀茂祭」ともいいます。かつては陰暦4月中酉の日に行われていました。

祇園祭・時代祭とともに京都三大祭のひとつで、最も古い歴史があります。また春日大社の春日祭(3月30日)と岩清水八幡宮の岩清水祭(9月15日)とともに三勅祭であり、国家的な祭とされました。岩清水祭の「南祭」に対して「北祭」ともいわれ、また単に「祭」といえばアオイ祭を意味しました。

伝承によると、葵祭は6世紀半ばに五穀豊穣を祈る祭として始まったとされています。794(延暦13)年の平安遷都後、賀茂神社は王城鎮護の社として、その例祭である葵祭は盛大に行われました。行列の美しさは当時から名高く、京都だけでなく近国からも見物人が押しかけました。

『源氏物語』には熾烈な「車の所争い」が描かれています。当時の車は牛車といわれる大きな車で、上流の公卿や姫君は沿道に駐車して乗ったまま中から見物しました。光源氏の正妻である葵の上と、愛人の六条御息所の車が鉢合わせしてしまい、車に従う下人同士が争って六条御息所の車を押しのけて恥をかかせました。このときに受けた恥辱がもとで、六条御息所はのちに生霊となって葵の上をとり殺します。フィクションではありますが、当時の人々が納得して読むほどに、葵祭の見物は熱狂的で必死だったのです。

平重盛は、場所取りのために何台も空車で違法駐車しているのを力ずくで押しのけて自分の車を割り込ませました。(これはフィクションではありません)

今日でも見られる駐車難の光景が葵祭のときにもあったのです。

葵祭は応仁の乱のときに衰退し、江戸時代に五代将軍綱吉のとき再興されました。その後も中断されましたが、1884(明治17)年に官祭となって復活しました。

祭は宮中の儀・路頭の祇園祭・社頭の儀からなります。圧巻は勅使・舞人・検非違使など約600名が王朝時代の衣装そのままに3.40頭の馬・牛車とともに市中を巡行する路頭の儀です。行列は1キロにも及びます。

午前11時半頃京都御所を発ち、丸太町通りから川端通りを経て、午後2時頃下鴨神社へ入り、さらに北大路通りから賀茂川堤を経て午後3時半頃上賀茂神社へ到着します。日本の祭りの一つの典型をなすものです。

 

ご参考までに・・・。